2012年07月31日

「端っこが好き」

向田邦子のエッセイ集「父の詫び状」の中に「海苔巻きの端っこ」という小品がある。
 彼女は小さい頃から海苔巻きの端っこが好きだったそうだ。遠足の時は必ず海苔巻きの弁当をお母さんがこしらえてくれる。その海苔巻きの端っこを食べるのが楽しみだったという。そのエピソードをきっかけに、彼女は食べ物の端っこの話をどんどん広げていく。
 羊かんの端。古くなった羊かんの端は「砂糖にもどって白っぽくジャリジャリしている。それがいいのである」と彼女は言う。「そうそう」読みながら私も幼い頃を思い出し、相槌をうつ。
 「カステラの端の少し固くなったところ。特に下の焦茶色になって紙にくっついている部分」。これも同じだ。小さかった頃、駄菓子屋でそのカステラの紙の部分だけを売っていたような記憶がかすかにある。紙にくっついているカステラの底の黒っぽくネットリと甘い部分をスプーンでこそぎ落として食べた。
 「ハムやソーセージの尻っぽのところ。パンでいえば耳」。ここまで読むと「いっしょ、いっしょ」と気分が盛り上がり、彼女と話をしているような気持ちになる。
 調子に乗って、私の好きな食べ物の端っこをもう少し書く。
 紅鮭の塩焼きの切り身の端。端の細くなった部分は脂がよくのり、塩味もきいている。特に皮にへばりついている部分が一番好きだ。最後はその身をこそいでお茶漬けにする。
 焼き魚といえば、鮭や鯖の中落ちといわれるところも脂がのっていて旨い。骨にくっついている身をていねいにはがして食べる。この部分も魚の端っこだろう。
 焙(あぶ)った鰻の皮。焼き鳥も身よりも皮をカリカリに焼いたのが好きだ。

 端っこが好きなのは食べ物だけではない。
 電車の席は、必ず端に坐る。真ん中はどうも落ち着かない。これは世の中の大半の人が同じだと思う。端っこの席が空いていればほとんどの人がそこに坐る。端の席が空けばそこへ移動する。
 映画館でも端の方の席を選ぶ。向田邦子も喫茶店や映画館に入ると隅っこの席を探すと書いている。講演会等に行った時も端の席の方がゆったりとした気分で聴ける。
 以前、冬の時期に越中八尾(やつお)を家族で旅行した。八尾が賑うのは9月1日〜3日にかけての「風の盆」の時だけである。それを極寒の時期に行ったものだから宿泊先の観光ホテルの泊り客は私達だけだった。
 だだっ広い大広間の真ん中に私達の夕食の膳が用意された。
 「思いっきり羽を伸ばして大名気分でゆっくり食事して下さい」ホテルの女将はそう言った。
 誰もいないガランとした大広間で食事を始めたがなんだか落ち着かない。それどころか妙に薄気味悪くなり、私達はそれぞれの膳を抱えて大広間の入口の壁際に移動し、家族寄り添って食事した。
 どまん中よりやはり端っこが落ち着く。
 広い空間の端といっても左右の端はいいが、一番前の席は落ち着かない。
 カルチャー講座の教室でも一番前には坐らない。まして先生の正面はすごくプレッシャーを感じてしまう。居眠りさえ許されない。後ろからの圧力もヒシヒシと感じ息が詰まりそうだ。
 前後の端なら一番後ろがよい。
 バスの座席も一番後ろに陣取るとなぜかホッとする。一段高いシートからバス全体の乗客を見渡せ、心が伸びやかになる。
 大学受験の時、ある先生がテスト会場に行ったら真っ先に一番後ろの席から教室全体を見渡すと心が落ち着くというようなことを言われた。実際に試してみると、胸の圧迫感がスゥーっと溶けて、落ち着いてテストに臨めたことがある。
 端っこや、後ろに身を置こうとするのもそういう開放感や心の落ち着きを無意識に求めているからだろう。
 退職し、社会の真ん中から世の端へ身を置いた。たまに職場に顔を出すと、以前過ごしていた職場の雰囲気が鮮やかに目に映る。同僚同士の息の合わせ方、生徒に対する先生達の接し方などが生き生きと伝わってくる。かつて職場の真ん中で駆け回っていた自分の幻影が見えてきそうだった。
 世の端から人の営みを見つめると、今まで見えなかったものが見えてくる。それが何だかとても大切なもののように感じられる。その大切なものを心の真ん中に置いて過ごしてゆこうと思う。
posted by kamikaku at 20:59| Comment(0) | 連載