2011年09月17日

大阪上町台地・文学者遺跡巡り

 大阪・上町台地に点在する文学者の遺跡巡りのツアーに参加した。街歩きを企画する「大阪あそ歩」の取り組みで、谷町六丁目がスタートとなる。

 谷町六丁目から5〜6分南西方向に行った所に小さな公園がある。かつて桃園小学校がここにあった。大衆文学作家の登竜門「直木賞」の名の由来になった作家・直木三十五はこの近くの安堂寺町に生まれ、この地にあった桃園小学校に通っていた。公園の角に「萌」という名の古い町家を改築した小物などを売る店がある。その二階は直木三十五記念館になっている。

 空堀商店街の坂道を途中から右に折れ、谷町七丁目方向に歩く。この辺りは戦火から免れ、古い商家、長屋、路地などが残り、懐しい風情漂う町並みである。

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 谷町七丁目から南へほんの少し南に行った谷町筋に近松門左衛門の墓がある。幅1メートルぐらいの狭い通路を入って、左奥に近松の墓を見つけた。

このような都会のビルの片隅に閉じ込められ、近松もあの世で苦笑しているだろう。尼崎市の広済寺にも近松の墓がある。「どちらが本当ですか?」二人のガイドさんに尋ねたが、確かな答は得られなかった。

 近松の墓から北へ少し戻り、谷町七丁目交差点を東に入る。上町筋に出るまでに南北に熊野街道が延びている。角に右の道標があり、「天満八軒家浜から2.3km」と刻まれている。街道らしい道幅である。南へ辿れば四天王寺、住吉大社、堺、和歌山へと続く。いつかのんびり歩いて見たい街道である。

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 上町筋を南へ歩く。誓願寺の境内に井原西鶴の墓がある。西鶴は現在の谷町三丁目、槍屋町に生まれた。寛永から元禄期、俳諧から身を起こし、多くの浮世草子の名作を残した。寺の門を入った左隅に武田麟太郎「井原西鶴」の一節を刻んだ石碑もある。この作品もいずれ読んでみたい。

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 上本町五丁目付近の西にテニスコートがある。その片隅に服部良一作曲「青い山脈」の歌碑がある。彼の母校東平小学校がここにあった。歌詞の上に服部良一自筆の楽譜が刻まれている。

 「このボタンを押すとメロディが流れます。皆さん一緒に歌いましょう。」

 ガイドさんが言い、持参の歌詞カードを掲げた。曲が流れ、歌碑の前で全員で歌う。年配の参加者が多く大合唱になった。フェンスの向こうを通りがかった年配のオジさんも足を止め、口ずさんでいる。

 再び谷町筋に戻り、谷町九丁目手前を右に入った所に常国寺がある。ここに梶井基次郎の墓がある。近松や西鶴の墓は前に訪れているが、ここに梶井基次郎の墓があることは知らなかった。梶井は明治34年(1901)、大阪市西区土佐掘通で生まれ、東大英文科に進んだ。大正14年(1925)に発表した「檸檬」が代表作である。主人公は灰の病に冒され鬱屈した思いを抱えて、京都の街を彷徨する。ふと立ち寄った丸善書店で書棚から美術書を何冊も抜き取って積み上げ、その上に散歩の途中買って持っていた檸檬を一つ置いて立ち去る。主人公は檸檬を時限爆弾に見立て、10分後に丸善が大爆発することを夢想し、カタルシスを覚える−そのような内容の短編である。31歳の若さで早逝した後、梶井の文学的評価は高まり、「檸檬」は近代日本文学に名を残す作品となった。梶井の墓の前にみずみずしいレモンが一つ備えてあった。

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 「この墓には必ず誰かがレモンを供えにやって来ます」と女性のガイドさんが説明する。「彼の命日は“檸檬忌”と言い、大勢の梶井ファンがここに集まります」彼女はさらに付け加えた。

 今日のゴール、高津宮へと赴く。常国寺のある通りを1〜2分も北へ行くと、久成寺という寺がある。門の前に「曽根崎心中 お初の墓」という石碑がある。

 「このお寺の一番奥にお初さんの墓があります。拝んで行かれますか?」とガイドさんが言う。

 私がうなずくと同時に彼女は門をくぐり中へ入った。

 「今日は墓参りツアーやね。」参加者のオバさんが隣の婦人に声を掛けている。「妙力信女」と刻まれた小さなお初の墓が墓地の奥にひっそりと立っていた。

 その先の本経寺で「墓参りツアー」の最後の墓に参った。元禄期、大阪の道頓堀で浄瑠璃の「豊竹座」を創始した豊竹若太夫の墓である。この墓はお初の墓の十倍以上の立派なものだった。

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 本経寺の西向かいにある高津宮にようやく到着したいうN。新緑の木々が生い茂り、広い境内を持つ立派な神社である。主祭神は難波高津宮に遷都した仁徳天皇で、その時国見として詠まれたとされる「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑いにけり」という歌はよく知られている。またこの高津宮一帯は梅の名所で、わが国に論涪と千字文を伝えたとされる王仁博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉った歌がある。

 「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春へと 咲くやこの花」

 この歌の作者が王仁博士だということを初めて知った。この歌は、大阪に住んでいて和歌に心得のある人ならよく知っていると思う。「此花区」の由来ともなり最近「咲くやこの花」という校名の中学・高う校まで新設された。家のすぐ近くに「此の花」という料亭もある。

 第二次大戦で焼失し、昭和36年に再建されたこの神社の境内は、多くの見所がある。商売・芸能の神を祀る 高倉稲荷神社、安産祈願の安井稲荷、落語家の五代目桂文枝の碑など神社が発行している散策マップには16もの見学処がある。

 「ここは落語の“高津の富くじ”にも登場します。もう一人の男性ガイド、氏家さんががぜん張り切りだした。彼は高津小学校の元教頭先生だったそうだ。絵馬堂にその落語の絵が奉納されている。

 「富くじが当たった男もこの絵の中にいます」笑いながら氏家さんは説明された。

 「最後に皆さん社務所でおみくじを引いてください。そのあと、デザートをいただきます」

 杉山さんという女性ガイドの方が全員に声を掛ける。

 「ここのおみくじは辛口です」と宮司さんに言われ怖じ気づいたが引くと、大吉だったのでホッとした。

 社務所下の社殿内に案内され、宮司さんから説明を聞く。そのあと待ちかねていたデザートが出た。

 「氏子ロールというロールケーキです。この神社の氏子さんがお菓子屋さんをしていて作られたんです」宮司さんが説明する。「元は神社ロールという名でした。中に生姜が入っていて、英語のジンジャーと神社を掛けたのです」

 宮司さんが見せられたケーキの紙には「氏子ロール」と書いてある。「神社ロール」の方が絶対によかったのにと思った。

 「氏子ロール」はなかなか美味しかった。

 この神社に着いて突然頑張り出した氏家さんは、最後に、仁徳天皇の話を描いた紙芝居まで演じてくれた。

 墓参りツアーの最後はサービス満点の高津宮ガイドでお開きとなった。細々とお世話頂いたガイドのお二人にお礼を言って神社を出た。

 「大阪あそ歩」にふさわしい遊び心あふれた浪花街巡りだった。
posted by kamikaku at 17:03| Comment(0) | 連載
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